
オオタニはスイングの判断がよくない」大谷翔平に“予想外の苦言”も…「ドジャース・ロバーツ監督52歳は名将なのか?」現地取材で分かった“監督の正体”
ドジャースの監督、デーブ・ロバーツは「オオタニはメジャー最高の選手」と公言して憚らない。だが一方で、彼は決して大谷翔平を特別扱いしない。 メッツと対したリーグ優勝決定シリーズ、第5戦のことだった。ロバーツは試合中のテレビ中継でこう言及したのだ。「初回の内野ゴロでショウヘイは(三塁からホームへ)走らないといけない状況だった。でも止まってしまった。それで流れを相手に渡してしまった」。この発言に日米メディアは色めき立った。試合後すぐに“異例の苦言”の見出しが躍った。 公の場で大谷について批評めいた言葉を発するのは、これが初めてのことではなかった。 リーグ優勝後に抱き合う大谷翔平とロバーツ監督 ©JIJI PRESSすべての写真を見る(185枚) 大谷が月間打率1割台というスランプに陥った、8月中旬のことだ。ロバーツは次のように語っていた。 「打席での流れが一貫していないと思う。ストライクゾーンが見極められておらず、スイングの判断がよくない。ここ3週間、四球率がかなり下がっている」(地元紙『オレンジ・カウンティ・レジスター』ビル・プランケット記者/現地8月18日記事) 監督が不調の選手について言及する。極めて一般的な風景である。一方で、10年総額1000億円の巨額契約、史上初の50-50……と、大谷の実績が報じられるたびにこうも思った。前代未聞のスーパースターにおもねることなく意見できる監督なんているのだろうか。だからこそ、ロバーツの客観的な発言や態度は新鮮だった。 ロバーツが指摘した「“四球数”と“構え”」 リーグ優勝決定シリーズ第2戦、敗れた試合後の会見。その日ノーヒットに終わった大谷の状態について記者から問われたロバーツの言葉だ。 「オオタニは相手投手(メッツのマナイア)を打ちづらそうにしていた。オオタニは身体に近いボールを捉えるのが得意だから、相手は逃げていくボールで攻めていたね。それでも投手交代後、彼は四球を2つ奪った。最低限の仕事をした」 大谷のコンディションを見極めるとき、ロバーツは「四球数」「打席での構え」を目安にしていたことがわかる。意外にもシンプルな指標だ。当の大谷も「投手を見るときに正しい姿勢をとることは、本当に重要なことだと思う」(前出・地元紙)と語っている。身体から離れる球へのケア、構えから打つまでの流れ、ストライクゾーンの見極め。ロバーツと大谷の解釈は一致していた。 「どの選手に対しても公平。メンタルが安定している監督だ」。ロバーツをそう評するのは、負傷でポストシーズンに出場できなかった投手、タイラー・グラスノーだ。 「失望を隠せなかった」ブーン監督 たしかにロバーツはどこまでも冷静だった。象徴的だったのが、ヤンキースとのワールドシリーズ第1戦、あのフレディ・フリーマンによるサヨナラ逆転本塁打直後の会見である。 敗れたヤンキース監督、アーロン・ブーンが記者会見場に現れたのは、フリーマンの逆転弾からおよそ20分後。球場をなかなか去らないドジャースファンの咆哮が、静まり返る会見場まで届く。フリーマンの前を打つ2番ムーキー・ベッツをなぜ敬遠したのか。9月18日以来投げていないネスター・コルテスをなぜ登板させたのか。追及を受けるブーン。 「コルテスはこの数週間、いい球を投げていた。この日に向けた準備も整っていると感じていた。(1死一、二塁で迎えた)ショウヘイからダブルプレーを取ることも難しいだろうし、後ろにいるムーキーとも厳しい対戦になる。だから左のコルテスで左のフリーマンと勝負するのが最善策だと考えた」 ワールドシリーズ第1戦、あのフリーマンのサヨナラ逆転本塁打後の会見。ヤンキースのブーン監督 ©NumberWeb ブーン監督の表情。その声色からも失望が隠せなかった ©Getty Images 大きな賭けに敗れたブーンの声色には失望が滲んでいた。 わずか3分で終わったヤンキース監督の会見後、フリーマンが現れた。その顔は紅潮している。自分が放ったサヨナラ本塁打は現実なのか。確かめるように会見中、両手で幾度となく顔を拭っていた。その後に登場したのが、ロバーツだ。試合終了から40分が過ぎていた。 サヨナラ逆転本塁打後の会見。フリーマン本人も顔が紅潮していた ©NumberWeb 会見中には満面の笑みを浮かべる場面もあった ©Getty Images…

“熱くて自然体で頑張り屋”に受け継がれたバトン…岩手競馬史上9人目の女性騎手・関本玲花(24歳)が大怪我を乗り越えて歩む道
関本浩司騎手(現・調教師)の愛娘は2000年に生まれた。幼い頃から騎手に囲まれて育ち、菅原勲騎手や小林俊彦騎手(共に現・調教師)といった岩手競馬のレジェンドにも可愛がられた。水沢競馬場で競馬新聞を販売する祖父のところへ遊びに行っては、売り場からパドックを眺めていた。 「物心ついたときには騎手になりたいと思っていました。保育園の頃から将来の夢を書く機会があれば『騎手になりたい』と書いていました」 中学生の頃には、岩手競馬史上8人目の女性騎手である鈴木麻優さんが活躍していた。 「岩手には昔からずっと女性騎手がいたので、女性が馬に乗っていることに違和感がなかった。女性騎手という存在がいて当たり前みたいな感じだったんです。だから『かっこいいな、自分も乗ってみたいな』って」 3度目の受験で、騎手養成課程に合格。17歳の秋に親元を離れて、栃木の地方競馬教養センターへ入所した。センターでは朝5時30分の起床から、みっちりとスケジュールが組まれている。厳しい訓練にハードな厩舎作業。慣れない共同生活と徹底した体重調整。騎手候補生は総じてナーバスになる。 「友達に電話をかけたりして耐えていました。先生には2~3日置きに『もう辞めます』と言ってました。すると先生は『もうちょっとだけ、もうちょっとだけ』って。先生の『もうちょっとだけ』に騙されて、気づいたら競走訓練まで行っていました(笑)」 ©Takuya Sugiyamaすべての写真を見る(6枚) 弱音をこぼしつつ、粘り強く頑張るタイプなのだ。 「私は同期で唯一、乗馬未経験で入ったので、みんなからすごく遅れを取っていました。ぜんぜん上達しないし、先生たちも教えるのに苦労したと思います。だけど訓練自体は、下手だけど苦ではなかったです。『岩手の先輩たちと一緒に乗りたい』と思っていたので」 飛躍しようとした矢先のアクシデント 競馬場実習や実技試験をクリアして、念願の騎手免許を取得。父が騎手時代に着用していた勝負服をベースに好きな色を組み替えて、マイ勝負服をデザイン。2019年10月5日、19歳の関本騎手は、盛岡競馬場でデビュー戦を迎えた。結果は6着だった。 「めちゃくちゃ緊張しました。パドックに出たらお客さんがけっこういたので、それを見て余計に緊張して。レースは周りが全然見えなくて、ただ馬にすがっていたという感じでした」 10月7日には、スカイルークという馬に騎乗して逃げ切り勝ち。デビューから9戦目で初勝利を挙げた。 「本当に馬の力が強かっただけです。馬に持っていかれてしまって自分は何もできてないから、勝った嬉しさよりも情けない気持ちのほうが強かったです」 ほろ苦い初勝利を経て、試行錯誤しながら勝ち星を重ねていく。2022年11月22日に開催された「レディスジョッキーズシリーズ(LJS)」の盛岡ラウンド第2戦では、エイシンヌチマシヌに騎乗し力強く競り勝って、通算100勝を達成。シリーズの女王にも輝いた。2023年の夏には初めて新馬戦や特別戦を勝利し、成績を伸ばしていた。 そんな矢先に、水沢競馬場で痛ましい事故が起きる。2023年9月、レース中に騎乗馬が内ラチを破って逸走。投げ出された関本騎手は、骨盤開放骨折という重傷を負った。 「あの怪我をしたときは、ちょっとだけ『やめようかな』と思いました。神経症状、しびれとかが残りましたし、恐怖心もありました。それでもある程度気持ちが落ち着いてからレースを見ると、『馬に乗ってる先輩たちかっこいいな、乗りたいな』と思ったんです。だけど実際に調教に乗り始めてみたら、めちゃくちゃ怖くて」 そんな葛藤を抱えながらも、2024年3月8日、LJSの笠松ラウンドの日のエキストラ騎乗で半年ぶりの復帰戦に臨み、3着にまとめた。レース後は「ゲートの中では心臓バクバクでした」と、安堵の笑顔が弾けた。笠松はデビュー前の実習や、デビュー後の武者修行に励んだなじみの深い競馬場だ。 「怪我をした水沢でレースに復帰すると、恐怖心が出ちゃう気がしたんです。だから最初は笠松で乗った方が、気持ち的に楽かなと思って。笠松で復帰させてもらって、本当によかったです」 男性に追いつくためのトレーニング 2024年は41勝。大怪我を乗り越えて、キャリアハイの勝ち星を挙げた。その理由のひとつは、以前から通っているパーソナルトレーニングジムにある。 「男の人たちに追いつくためにはどうしたらいいかな? と考えたときに、自分にはまず筋力が足りないなと思いました。体幹も弱かったので、体幹メニューをメインにやってくれるジムを選びました。チューブを使って、体の軸をまっすぐに戻すためのトレーニングをしたりします。ジムに通ってから、『馬へのハマりが前よりもよくなったな』とは感じています」 岩手リーディングの山本聡哉騎手も同じジムに通っている。 「ジムに行き始めた話をしたら、聡哉さんも来るようになったんです(笑)。それから自分のレースも見てくれるようになって、色々なことを教えてくれるので、そういう面でもジムに行ってよかったなあと思います」 ©NAR 好きな戦法は「差し」。…

愛称は「かおる姫」、写真集も発売…元人気女子バレーボール選手・菅山かおる44歳が「あのニックネームは本当に幸せでした」と語る理由
現役時代、「かおる姫」という愛称で一躍、時代の人となった元バレーボール日本代表選手の菅山かおるさん。インドアからビーチバレーボールへと転向し、その後、結婚、出産を経験した。結婚相手の西村晃一氏もまたインドアからビーチバレーボールに転向後、50歳となった今でも現役でバリバリ活躍中である。トップアスリートであり、日本代表という同じ経験を持つ稀有な夫婦だ。 現在は二児の母となり、子育ての真っ最中だとか。どのような生活を送っているのか聞きたいと、取材をお願いした。現在44歳のかおるさん、現役時代と変わらぬスリムな体型と、柔らかい笑顔で待ち合わせ場所に現れた。 まずは去年から再開したというインスタグラムの話題から会話はスタートした。 「これまでは子供が小さかったこともあって、あまりお友達に会って遊ぶこともなく、とにかくずっと家にこもっていたので(笑)、更新しようにも話題がなかったんです。でも子供が一人で習い事に行くようになって、わたしの手を離れたので、外に出てお友達に会ったりする機会は増えました」 12歳になる長男は、元日本代表の木村沙織さんがアンバサダーを務める大会に出場。木村さんとは久しぶりの再会を喜び合ったという。 かおるさんが初めて日本代表のユニフォームに袖を通したのは2005年のことだった。ちょうどメグカナコンビ(大山加奈さん、栗原恵さん)の活躍で、アテネオリンピックで5位入賞を果たした直後。女子バレーボールの人気が沸騰していたころだ。現在はネーションズリーグと名前を変えた『ワールドグランプリ』でかおるさんは日本代表デビューを果たした。 日本代表時代の菅山かおる ©BUNGEISHUNJUすべての写真を見る(28枚) 「“かおる姫”ニックネームは本当に幸せなことでした」 凛とした佇まいと、色白美肌のビジュアルが人気を博し、試合での大活躍もあって瞬く間にスター選手となった。「かおる姫」という愛称はテレビ局によってつけられたもの。栗原恵さんはのちにテレビ番組で「“プリンセス・メグ”というニックネームは嫌だった」と明かしているが、実際、かおるさんは「かおる姫」という愛称をどうとらえていたのだろうか? 「特に嫌だとは思いませんでした。ただ、恥ずかしかったですね。日本代表に選ばれて、お披露目の会見で一人ひとり選手が呼び出されるときにその愛称が発表されたんですが『えっ? 姫?』と(笑)。わたしの実際の性格はとてもサバサバしていて、姫というよりはオジサン。それを知っている日本代表のチームメートに『姫だって!?』と笑われたことを覚えています」 そのニックネームのインパクトと、日本代表での活躍もあり、かおるさんの人気はあっという間に全国区となった。 「日本代表に選ばれるまでは、試合に応援に来てくれるのは会社の人やJT(当時の所属先)のファンの方だけ。もちろん、それもありがたかったのですが、それがいきなり、どこへ行っても会う人がみんな『かおる姫』と呼んでくれて、いろいろな人が応援してくれるようになりました。わたしにとっては本当に幸せなことでしたね。『かおる姫』というニックネームのおかげで、あれほどたくさんの人に名前と存在を覚えてもらえたんだと思います」 リベロ転向→代表ではまさかのスパイカーに 切れのあるスパイクが印象に残るかおるさんだが、実は日本代表でのアタッカーとしての活躍は本人が意図したものではなかった。 幼いころから日本代表に入るのが夢で、高校卒業後、実業団チームに入った。ただし169cmという身長はバレーボール選手としてはそれほど大きいほうではない。 「もちろん、170cm以下の身長でも国際舞台で活躍している選手はいましたけど、でも、同じタイプの選手はそれほどたくさん必要とされないだろう、と。そこで、リベロに転向するほうが日本代表への道は近づくのではないかと考えたんです」 日本代表には当初「リベロ」として招集されたのだが…… ©BUNGEISHUNJU ADVERTISEMENT 2005年のシーズン終了後、リベロに転向して約半年間、全くスパイクを打たずに守備練習のみに打ち込んだ。迎えた第11回Vリーグにはリベロ登録で出場。そこでの活躍が認められ、憧れ続けた日本代表に初めて選ばれたのである。 ところが日本代表は海外遠征の最中、アウトサイドヒッターが2名故障するというアクシデントに見舞われる。遠征中のため、ほかの選手を呼び寄せることはできない。困った当時の柳本晶一監督は前年までアウトサイドヒッターだったかおるさんに「スパイカーとして試合に出るように」と指示したのである。そして、スパイカーで出場した試合で活躍し、その後もスパイカーで出場を続けることとなった。日本代表に入るためにリベロに転向したはずが、思いもよらぬ形でスパイカーとしてスポットライトを浴びることになったのだ。 「“姫”じゃなくて申し訳ないな…って(笑)」 それにしても、写真集も発売されるなど、壮絶なフィーバーぶりだった当時、普段の生活は一変してしまうようなことはなかったのだろうか? 「いえ、特に自分自身は変わりませんでしたね。怖い思いですか? ときどき外出先で『後をつけられているなぁ』と感じることはありましたけど、それほど怖さは感じませんでしたね。いつも応援に来てくれる方は顔も覚えていましたし、マナーの悪い人もいなくて、あれほど応援していただいて、本当に幸せでしかなかったです」 インタビューに答える菅山かおる ©Takuya Sugiyama さっぱりした性格だと自己分析するかおるさんだが、『姫』というメディアによって印象付けられたキャラクターと素の自分とのギャップに悩むことは? 「特になかったですね。ただ、『わたしのことを知っている周りのみんなは姫なんて思ってないんだろうな』って思いながら過ごしていましたけど。どちらかといえば『姫じゃなくて申し訳ないな』って思っていました(笑)」…