Apache (2024) – Scarlett Johansson, Jason Statham | Full Synopsis & Review

In the harsh Arizona desert, Jack “Apache” Mercer (Jason Statham), a former high-ranking special agent, lives in hiding after being betrayed by the government. Mercer, a once…

「ヒョウ柄の水着」で話題を集めた選手の告白「恥ずかしいという気持ちは全くない」“ビーチの女豹”浦田聖子が語るビーチバレーのユニフォーム改革

かつて春高ヒロインとして注目を浴び、強豪・NECレッドロケッツを経てビーチバレーの世界で闘った浦田聖子。NumberWebインタビュー第2回では、オリンピック出場を目指したビーチバレー時代の秘話を聞いた。《全3回/第3回に続く》 浦田聖子はバレーボールで培ってきた9年間のキャリアをきっぱりと脱ぎ捨てた。2002年初夏の訪れとともに、ビーチバレーでのオリンピック出場を目指し、新たな生活をスタートさせた。当時21歳だった。 「環境面がガラッと変わりました。ずっと寮生活だったので、一人暮らしは家賃や水道代、光熱費などこんなにお金がかかるのか、と大変でした。悪天候の日は海で練習できない日もあって、『1日休んだら3日分遅れる』と言われて育ってきた私にとっては、どうしよう、どうしようと不安しかない。監督やコーチも結成当初はいなかったですし、世界の選手と戦いたいと思って転向したけれど、戦うまでの準備もできていない状態。初年度は椿本さんと一緒に組んで、『なんで体育館ではできていることが砂の上ではできないんだ?』と2人でクエスチョン状態。始めたばかりの頃は、戸惑うことばかりで世界を転戦していても結果は出ませんでした」 浦田のプレーが見違えたきっかけ 2年目からシドニー五輪4位に輝いたベテランの佐伯美香とペアを組むことになった。そこから浦田のプレーは見違えるように変わった。しなやかに、ダイナミックに。豊富なジャンプ力も際立ち、スパイクやジャンプサーブもより力強さが増し、砂の上で躍動した。 「テル(佐伯)さんと組んだことは大きかったですね。テルさんから、動けるようになるには3年は必要だよって言われていて。『3年もかかるの?』と思いました(笑)。テルさんは言葉で教えるよりも背中で見せてくれるタイプ。テルさんの真似をして動くと実際できるようになる。中学校時代に味わった練習すればうまくなる、という感覚をビーチで味わうことができたんです。大変な部分もありましたけど、面白いと思えるようになりました」 まるでスポンジのように、佐伯からビーチのいろはを吸収していった浦田は、2004年のワールドツアー大阪大会で7位タイに入るなど存在感を発揮し始めた。その後、アテネ五輪に出場した当時のトップランカー・楠原千秋ともペアを組んだ。ベテランたちとのシーズンを経て、浦田は同じくVリーグから転向を遂げていた鈴木洋美と2007年からペアを組むことになった。 「ヒョウ柄の水着」にはコンセプトがあった ちょうどこの頃だった。『ビーチの妖精』として浅尾美和がメディアに登場。シーズン中は毎週のように国内ツアーの結果が露出されるようになった。 当時の女子ビーチバレー界は華やかだった。北京五輪に一番近いと言われていた佐伯美香/楠原千秋組、小泉栄子/田中姿子組のベテラン勢。次世代を担う浦田聖子/鈴木洋美組、大衆の視線を釘づけにしていた浅尾美和/西堀健実組らがしのぎを削っていた。 そんな中、選手たちのユニフォームである水着にコンセプトを持たせて前面に押し出していったのが、浦田/鈴木組だ。 「このシーズンからレオパレスさんがスポンサーについたので、『戦う豹』をイメージしたものにしようと話していて、ヒョウ柄の水着を作りました。単にヒョウ柄が好き、という理由ではなく、ちゃんとしたコンセプトがあったんですよ。ちょうどその頃、ヒロ(鈴木)さんとブラジル合宿から帰国したら、美和が大ブレイクしていて。ビーチバレーがメディアに露出し始めたタイミングと重なったんです」 メディアは『ビーチの妖精』に対し、『ビーチの女豹』としてマッチアップさせた。2008年北京五輪イヤーシーズンには、『金』を意識したゴールドバージョンを身にまとい、新聞社を挨拶回り。ビルの屋上で堂々と撮影したこともあった。 「各社へ私服を着てご挨拶して、撮影のときはバッと水着になる。当時はどこでも脱げる状態でしたね(笑)。恥ずかしいという気持ちは全くないです。私たちにとってはユニフォームなので。『ビーチの女豹』という名前をつけてくださったことで印象にも残りますし、知ってもらう機会も増えました。水着で注目を集めたかったのは、ビーチバレーはオリンピックでは人気があることを含めて、ビーチバレーの魅力が早く伝わるように。ひとつの手段という意識はありました」 浦田のこだわりが、ユニフォーム改革のきっかけに だからこそ、強くなりたかった。結果的に浦田/鈴木組は北京五輪への出場が叶わなかったが、浦田の水着へのプライドは、ビーチバレーのユニフォーム史上に改革を起こすきっかけとなった。 とくに2010年に考案されたレイヤー水着は、フィット感と肩甲骨の可動を重視。筋肉の動きをスムーズに、かつ身体に負荷をかけない機能性とファッション性を追求した斬新なものだった。 「当時、水泳界でレーザーレーサー(水泳競技用の水着)が流行っていて、私たちの水着にも応用できないかと、考えました。インナーの水着は筋肉に沿って動くようにズレない。アウターの水着は砂がはけるような素材を使って二重構造になっていました」 現在のユニフォームは両肩でトップスを支えるショルダーストラップ型が大半だが、この頃の競技ウェアは首に紐をかけたホルターネック型が主流。選手たちの首にかかる負荷は否めなかった。 「私たちの時代のウェアといえば、これが定番。首の後ろで紐を結ぶので、首が引っ張られて、疲労が溜まってくると肩が凝ったり、首を寝違えたり。首、肩への負担を軽減したくて、インナーをショルダーストラップにして肌にフィットさせ、アウターはファッション性を持たせながらも首の後ろで強めに結ばなくてよいものを着ていました」 水着の多様性で表現した「ビーチバレーの魅力」 当時の女子選手のユニフォームは、水着一択。機能性を高めていくしかない時代である。浦田はレイヤー水着以外にも、光を蓄えれば発光するシリコンで蜂の巣をイメージした六角形の柄をデザイン化した「女王蜂」水着、ビーチバレーの魅力やテーマを色で例え七色のバリエーションをそろえたレインボー水着などをシーズン初めに発表。なかなかメディアに取り上げられないビーチバレーの話題を提供することも事欠かなかった。 最前線でビーチバレー界をけん引してきた浦田は、2010年から西堀健実とペアを結成。2012年にはロンドン五輪アジア予選に日本代表として出場。しかし、道半ばで敗れオリンピックには手が届かなかった。 「オリンピックに大失恋でした。何が足りなかったのか、そういう悔しい想いだけではなく、日本代表である自分が女子の連続五輪出場を閉ざしてしまったという申し訳なさでいっぱいになりました。ただ今になって思うのは、ビーチバレーに転向してオリンピックレースに参戦できたのは人生の財産だと思えるようになりました」 オリンピック出場を懸けて戦った者しか味わえない気持ちを胸に刻み、浦田は現在ビーチバレーの解説者、講師、バレーボールの外部指導の現場で活動している。

「電撃引退」逸ノ城30歳とは何者だったのか?「ずっと部屋でひとりぼっちでした」女子にも負けた“最弱”高校時代…ザンバラ髪の怪物が誕生するまで

直前の3月場所で十両優勝を果たしながら、電撃引退した逸ノ城(30歳)。2014年にデビュー、わずか5場所での新関脇、新三役はいずれも昭和以降1位のスピード出世だった。「“ザンバラ髪”の怪物」と騒がれ、将来を期待された男とはいったい何者だったのか? 9年前、雑誌『Number』での本人インタビューを特別に公開する。 「えーっ?」丸太みたいな太もも 「うわ、これ懐かしいっすねぇ」 身長193cm、体重200kgに迫るその巨体をかがめて、1枚の写真に見入る逸ノ城がいた。 それは2010年3月、モンゴルの広大な草原から海を越え、わずか4m55cmの土俵に立った、かつての自分の姿だった。頼りなげな肩に、柔らかに垂れた胸、真っ白な肌の上半身。一緒に来日した、丸々と太った照ノ富士が笑顔を向けているその横で、不安げな顔で棒立ちしている16歳の逸ノ城――。ただ、鳥取城北高校相撲部監督が、ひと目で惚れ込んだその太ももだけは、どっしりと丸太のように、存在感を放っていた。 2009年冬。モンゴルの首都ウランバートルで、相撲部員をスカウトするために集められた60人のなかに、冴えないひとりの少年がいた。 逸ノ城を見いだした同校相撲部監督の石浦外喜義が、その当時を振り返る。 「なんだかデレ~ンとした体だったけれど、パッと太ももを見た瞬問に、『えーっ?』と驚いたくらいです。うちの卒業生である田宮(元大関琴光喜)もそうだったんですよ」 2011年の山口国体。のちの逸ノ城(アルタンホヤグ・イチンノロブ)は左。2010年に来日、この丸太のような太ももが鳥取城北高がスカウトする決め手になった ©KYODO 「母親が反対した“日本行き”」 同校相撲部でコーチを務めるレンツェンドルジ・ガントゥクスは、自身も中学時代から日本に相撲留学をしたモンゴル人だ。選抜大会で勝ち残った逸ノ城を見て、日本に連れて行って大丈夫なのだろうか、続けられるだろうか、何よりも「相撲に向いているのだろうか」と、一抹の不安を覚えたという。 「性格もおとなしくて、あまり喋らない。モンゴル人は闘争心があって気が強い気質もあるけれど、そんな部分がまったく見えない。負けても悔しそうな顔をしないんですよね」 通訳の男性との、「この子のモンゴル語は訛っている」との会話から、遊牧民出身だと初めて知った石浦は、悩んだ。 「長男で、大切な働き手を連れて行ってしまっていいのか、と。実際、母親が反対し、日本行きはなかなか決まらなかったんです」 しかし、幼少時から燃料用の家畜の糞を集め、丸太を両脇に抱えて山を下り、羊や山羊、馬を追う日々を送っていた少年の心は、決まった。けして裕福とは言えない、過酷な遊牧生活を送る家族のためにも、日本に行き、成功したい――逸ノ城は言う。 写真は来日から4年、2014年のスピード出世。デビューからわずか5場所で関脇まで駆け上がり、CMにも出演した ©BUNGEISHUNJU 女子にも負ける「最弱部員」だった 「高校を卒業したら、就職するか、大学に行くか、プロに行くか3つの道があると言われていました。それならば、僕は最初から絶対にプロに行くと決めて、日本に来たんです」 両親と幼い弟妹を残し“ジャパニーズドリーム“を追った。部員たちと寮生活を送り、初めてまわしをつけた逸ノ城は、189cm、135kgの体躯を持ちながらも、女子部員に転がされるほどの「最弱部員」だった。 「ケガしそうだったので、1年間は相撲を取らせなかったんです。徹底的に基礎練習だけ。ただ“メシ”だけは強かったから、どれだけ大きくなれるかな、とは思ってましたけどね」 との石浦の言葉に、逸ノ城は、「先輩に食べさせられたんですよ」と苦笑いする。 「どんぶりに盛られたご飯を8杯、鍋を5杯と、吐きそうになっても、吐いたら意味がないんで、我慢してました。稽古も大変でしたけど、食べるのもつらかったっす……」 挨拶、礼儀、日常会話。コーチのガントゥクスが、「腰を落とせ」「脇をしめろ」との相撲の基本指導の日本語をローマ字で表し、モンゴル語でその意味を書き添える。そのひとつひとつを覚える生活が始まった。   2014年秋場所。100年ぶりの新入幕優勝は逃したものの、殊勲賞と敢闘賞を受賞した。所要5場所での初受賞は最速タイ ©BUNGEISHUNJU 「ずっと部屋でひとりぼっちでした」 しかし、入部早々、逸ノ城はいきなり躓く。…