妊産婦支援のNPO法人「ひまわりの会」の会長として母子健康手帳デジタル版の運用を進め、こども政策などのテーマにも取り組む衆議院議員の野田聖子さん。野田さんが、現在14歳になる息子を出産したのは50歳。1度目の結婚では14回の体外受精に挑戦したものの妊娠にはいたらず、流産も経験。現在の夫と再婚したのち、アメリカで卵子提供を受けて妊娠・出産した野田さんに、不妊治療のこと、卵子提供のことなどについて聞きました。野田さんは「私の経験を話すことで、多くの女性が自身の体と向き合うきっかけにしてほしい」と話します。全2回のインタビューの前編です。 【画像】生後2日、NICUの真輝さん。
「私のようにならないで」と若い人に伝えたい
真輝さん1歳5カ月のころ。入院中のベッドの中でも日に日に動きが活発になり、成長していました。
——衆議院議員としての仕事をしながら、子どもをもつことにどんな思いがありましたか? 野田さん(以下敬称略) 私が26歳で県会議員になって政治の世界に入った当時は「政治は男の世界、女の幸せは議員として一人前になってから。まずは有権者のために働け」と言われ、自分もそのことに何の疑問ももちませんでした。自分が結婚したい、母親になりたい、という思いをもちながらも、女が政治をするならなにか犠牲を払わなきゃいけないと思っていました。それに、そのころ女性が年齢によって子どもが産みにくくなるとは知りませんでした。 ところが、40歳近くになると後援会の幹部が「女性有権者の共感を得るためにも結婚しなさい」と言うんです。かなり驚きましたが、そんなとき出張先で当時参議院議員だった前の夫と出会いました。好きな人を作っていいんだな、というタイミングでの出会い。乾いた心のスポンジが水を吸い込むように、知り合ってから4カ月でスピード事実婚。私はすでに40歳でしたが、毎月生理があるから子どもができるはずと考えていたんです。 ——検査などはしましたか? 野田 私が尊敬する女性作家の方に結婚が決まったと報告したとき、「すぐに産婦人科に行って子宮や卵巣のチェックをしてもらいなさい」と言われたことを、今でも鮮明に覚えています。その方は高齢出産を経験されたのでアドバイスをしてくれたのです。 私はそれまで子宮がん健診など以外では、婦人科に行ったことがありませんでした。いろいろな検査を受けて、卵管閉塞による不妊症であるとわかり、また40歳を過ぎると妊娠しにくくなるということも知りました。自分から情報にアプローチしていなかったことを反省もしましたが、そのころはだれも教えてくれなかったことでした。 だから私は今、「私のようにならないで」というメッセージを若い人たちに届けたいと思っています。仕事より何よりいちばん大事なのは、自分自身の人生ですから。自分の体と向き合って、かかりつけの婦人科ももってほしいと思います。 ——野田さんは前の夫と数年間に渡り不妊治療に挑戦したそうです。 野田 前の夫と14回の体外受精にチャレンジしたけれど、どれだけ頑張っても受精卵はほとんど着床しませんでしたし、流産も一度経験しました。私のせいで彼に子どもができない、父親にしてあげられないと負い目を感じながら、これからも彼と一緒に生きていくのは苦しいと考え、話し合った末、別れることになりました。 その後、今の夫と出会いました。これまでの経験から、私の体はもう妊娠不可能な状態になっているのだろうとあきらめていましたから「子どもはできません。結婚もしません。それでもいいですか?」と確認した上で、おつき合いが始まりました。
多忙を極めていた中に訪れたチャンス
議員会館の野田さんの部屋の壁には、真輝さんの赤ちゃんのころからの写真が飾られています。
——その後2010年にアメリカで卵子提供を受けることにしたのは、どのような理由からですか? 野田 夫はとても優しい人で、「自分たちは子どもができないけれど、里親制度などで子どもを迎えて育てたい」と特別養子縁組を考えていました。一緒に乳児院をまわったりしたのですが、当時、母親が高齢で共働きだと養子縁組はできないという理由で、養子を迎えることはかなわなかったのです。 あるときネットサーフィンをしていた夫が、卵子提供の情報を見つけました。諸外国ではそういう妊娠の可能性もある、と。私は夢物語だと思いましたが、夫は卵子提供の可能性を調べながら、いろんな人に話を聞きに行って情報を集めてくれました。最終的に、アメリカで代理母出産で双子を授かったご夫婦にお話を聞いて、卵子提供のエージェントを紹介してもらうことに。 ——2010年当時、仕事もとても忙しかったのでは。 野田 私は2008年から消費者行政推進担当大臣として多忙を極めていました。ところが2009年8月の第45回衆議院議員総選挙で、なんと自民党が大敗し与党から野党になったのです。あまり知られていませんが、与党と野党では議員の表立った仕事量も大きく変わります。それに、与党と野党では世間の注目も大きく変わります。私が与党で大臣のままだったら、卵子提供を受けることが難しかったと思います。 はからずも野党になったことで、自らの妊娠・出産に再チャレンジしてみようと思ったんです。日本では卵子提供による妊娠・出産は非合法ではないけれど事実上は認められていなかったために、アメリカで卵子提供を合法化している州のクリニックで卵子提供を受けることにしました。
2回目の移植で妊娠
2014年3歳の春にお花見へ。お花よりいたずらに夢中だった真輝さん。
——野田さんが受けた卵子提供による体外受精は、どのようなプロセスでしたか。 野田 渡米前に、国内で病気やホルモン状態の検査を受けたあと、アメリカの不妊治療クリニックで検査を受けました。医師に「私は今49歳で、妊娠できたとして出産は50歳になるけれど大丈夫でしょうか」と聞くと「60歳で双子を産んだ人もいますし、70歳で立派に育てている人もいます。妊娠可能かどうか入念な検査の上判断しますが、年齢ではなく個人差です」とのことでした。 帰国して日本で妊娠した場合にサポートしてくれる病院を探したあと、アメリカに渡り、卵子提供者のドナーと夫との受精卵を子宮に移植しました。移植後は山ほどのシリンジと注射針とホルモン剤などを持って帰国。移植した受精卵が着床しやすい環境にするために、毎日、決まった時間に自己注射を打ちました。会議や会食の合間に注射できる場所をなんとか探すような日々でした。 私は1回目の移植でなぜか確実にできるだろうと信じ込んでいたのですが、1回目は妊娠につながらず…「やっぱり私は妊娠できないんだ」と大きなショックを受けました。つらかった不妊治療のときのように、トライしてダメだったら心が持ちません。夫に「もうやりたくない」と伝えると、夫は「残りの受精卵を凍結してあるから、もう一度チャレンジしたらどうだろう。最後のお願いを聞いてくれる?」と。最後、ということで2回目にチャレンジしてみたのです。 ——どのように妊娠がわかりましたか? 野田 2回目の移植後、数週間して少量の出血があり、着床出血かもしれない…と予感しました。アメリカのクリニックから渡された妊娠検査薬を使う時期は決められていたのですが、「もしかしたら…」と気になってしょうがなかったので、ドキドキしながらドラッグストアで妊娠検査薬を買って自己検査しました。そうしたらくっきりと妊娠の線が出たんです。雷に打たれたような驚きと喜びでした。 それからは毎日毎日ドラッグストアに行って妊娠検査薬を買って検査して、妊娠が継続していることを確認していました。検査薬が10本くらいたまったら、カップに入れて神棚に飾って。有頂天でしたね。それまでの人生でもいいことはたくさんあったけど、どんなことよりも大きく、突き抜けるような喜びを感じていました。 そんな私を見て夫は「あほちゃう(笑)?」とあきれ顔(笑)。でも、自分が26歳から封印してきた「母親になる」夢が4半世紀ぶりにかなうことは、本当にうれしかったんです。妊婦健診で赤ちゃんの心拍を確認してからも、仕事で無理をしすぎないように気をつけるようになりました。 お話/野田聖子さん 写真/野田聖子オフィシャルブログ「ヒメコミュ」 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部 野田さんは自身の経験を通して、「これから子どもを考えている人には、ぜひ自分の体の状態をチェックして、人生を大事にしてほしい」と語ってくれました。 後編では、妊娠中に赤ちゃんに障害があるとわかったことや、医療的ケア児を育てる母としての思いなどについて聞きます。 「 #たまひよ家族を考える 」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
野田聖子さん(のだせいこ)
野田聖子さん(のだせいこ)
1960年生まれ。岐阜県議を経て1993年衆議院初当選、現在11期目。1998年、小渕内閣で郵政相に抜てきされる。福田改造内閣と、続く麻生内閣で消費者行政推進担当相、内閣府特命担当相(食品安全・科学技術政策)、第3次安倍改造内閣、第4次安倍内閣で総務相、女性活躍担当相、岸田内閣で内閣府特命担当相(少子化対策・地方創生・男女共同参画)などを歴任。人口減少問題をはじめ女性活躍や多様性社会の推進などに取り組んでいる。 ●記事の内容は2025年3月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。