小さい子どもに向けたアニメ作品では、悪役であってもあまりに恐ろしい存在にしてはならない。悪いやつで、成敗されるのだけど、どこか憎めない愛嬌みたいなものも求められる。
対象年齢や作品のターゲットに応じて、物語の悪役のあり方というのは、適宜調整される。悪役のあり方が作品のコンセプトが現れるということがあるのだ。
『忍たま乱太郎』シリーズの悪役・稗田八方斎は、そんな作品のコンセプトを体現する存在と言える。本シリーズは未就学児から小学生を基本ターゲットとする明るい作風で、八方斎もドジで間抜けな悪役として、小さい子でも安心して見られる存在となっている。
しかし、現在公開中の『劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師』では、いつもと様子が異なっていた。本作は忍術学園の先生である土井半助の変質を描くが、同時に八方斎もいつもと様子が違うのが物語の大きなポイントとなっている。
この八方斎の変化は、悪役は作品のコンセプトを作る上で非常に重要な存在であるということを示しているのではないか。
稗田八方斎
※以下の本文にて、本テーマの特性上、作品未視聴の方にとって“ネタバレ”に触れる記述を含みます。読み進める際はご注意下さい。
■普段の八方斎の魅力は“ドジ”
八方斎の外見的特徴は、その大きな頭だ。禿げ頭にサラサラヘアをなびかせ、顎が割れた特徴的な顔は一度見れば忘れない強烈な印象を残す。その大きな頭をのけぞらせて、すっ転ぶという定番のギャグを持ち、一度転ぶと頭が重くて一人では起き上がれない。そんな間抜けな一面もありながら、ドクタケ忍者隊の首領を務めており、部下からの信頼は意外と厚い。
忍術学園とは対立関係にあり、いろいろな迷惑をかけている。自分の好感度を気にして、髪結い技術の高い斉藤タカ丸を誘拐したり、乱太郎たちをさらったり罠にはめたり、悪事を働きはするが、詰めが甘くて失敗する。なんだかんだと、忍術学園の面々とも顔なじみになってしまっており、あんまり怖がられてもいないときすらある。
作品には、それぞれ「トーン」がある。子ども向けの作品では、どぎつい描写はしないなどといったこともそれに含まれる。とりわけ、このトーンを作るためには悪役のあり方は大切だ。『忍たま乱太郎』シリーズは、基本的に子ども向けの作品なので、悪役も過剰に恐ろしい存在としては描写されず、ドジな面が強調される。『アンパンマン』の悪役ばいきんまんなどとも共通するあり方だ。
しかし、そんな八方斎が今回の劇場版ではいつもと違った、残忍な一面を見せる。
『劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師』場面カット■劇場版で見せた八方斎の非情な側面
『ドクタケ忍者隊最強の軍師』は、忍術学園の優しい土井先生が行方不明となるところから物語がはじまる。その行方を探しにドクタケ忍者隊の領地に捜索に向かった忍術学園の面々を待ち構えていたのが、「天鬼」と名乗る土井先生そっくりの人物だった。その正体は記憶を失い、洗脳されている土井先生なのだが、これを裏で操っているのが八方斎だ。
八方斎と土井先生は、アクシデントでお互いの頭を打ち、いつもと様子が違ってしまっている。土井先生は記憶を失い、八方斎はいつもよりも頭が冴えるようになった。
『劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師』場面カット
普段は間抜けな面が強調される八方斎だが、折に触れて実力者であることがも言及される。今回の劇場版は、頭を打った影響でその実力がある部分が前面に出てきて、なおかつ残酷な手法にもためらいなく踏み込む残忍さを見せる。記憶を失っている土井先生に向かって、教え子たちを斬れと命じるのだ。その残忍さにドクタケの部下たちも恐れおののくような描写もあった。
本作がいつもの『忍たま乱太郎』とは、やや異なるテイストの作品を志向している面があり、悪役としての八方斎にもそれが反映されているのだ(一方でいつものように憎めない面描かれる。例えば、話題になっている踊りのシーンなど)。
作品全体が普段よりもシリアスな展開をするためには、悪役のあり方にも工夫が必要だ。悪役のあり方が、作品全体のトーンを決めていると言っていい。
本作のシリアスな雰囲気は、土井先生の記憶が戻ることによって、いつもの和やかな雰囲気へと戻っていく。それと同時に八方斎もいつものドジでマヌケな雰囲気へと戻っていき、部下たちも安堵する。
八方斎が、残酷さを見せるのはこれが初めてではなく(例:劇場版第一作目など)、彼は作品に求められるトーンによってそのあり方を変化させられる、稀有な悪役だ。
今回の劇場版は、大人もうならせる面白さと評判となっているが、そのうならせる部分を陰から支えているのが八方斎と言える。前回、当コラムで荒木飛呂彦の書籍『荒木飛呂彦の新・漫画術 悪役の作り方』を紹介し、荒木氏の「悪役に作者の哲学が反映される」という言葉を紹介した。『忍たま乱太郎』の八方斎は、まさに作品の哲学、ひいては作品のあり方全体を体現する存在と言えるかもしれない。彼がシリアスになると作品もシリアスになり、和やかモードになれば作品全体も和やかになる。悪役が作品のトーンとマナーを決めているという好例だろう。