
「NHKニュース7」畠山衣美アナが溺れた略奪不倫《夫を奪われた身重の妻は「許せない」とーー》【先出し全文】
お揃いのカチューシャ&ペアルック この春、「NHKニュース7」に抜擢された次期エースの女性アナには知られざる秘密があった。職場の同僚と不倫関係に陥り、同棲を開始。だが、ディズニーランド、北海道旅行と逢瀬を重ねるこの男の妻は妊娠中で……。 本文:4,453文字 写真:10枚

与沢翼氏、離婚を報告「財産分与に合意」 18日には妻が子を連れ帰国し連絡取れずと投稿
実業家の与沢翼氏が22日、SNSで離婚を発表した。 与沢氏は18日のSNSで、タイにいた妻が3人の子を連れて帰国し、連絡がとれないことなどを告白していた。 【写真】妻と息子と幸せそうだった頃の与沢翼氏 ホームレス転落から返り咲いたセレブ生活だったのに Xには「財産分与に合意し、離婚に応じました。2年以内に必ず完済します」とつぶやき、妻の名を記して「ありがとう、本当に今までごめん」と投稿した。 YouTubeも投稿し、「奥さんが役所に行く、離婚届けを作成するのでタイに送るので、受領し次第、判を押して送り返して、離婚決定しました」とコメント。財産分与についても「財産分与、そういう形じゃない方がいいのかなと思ったが書面作って、それに合意させていただきました。財産分与しろと書かれてましたが、しました」と話し「妻も譲歩してくれたし、これからも良好です。1ミリも妻は悪くない」と、離婚はしたが、妻との関係は良好であると主張していた。 与沢氏は18日に、妻が帰国したことを明かし、妻からのLINEを公開。「朝から動悸(どうき)息切れ、震え、涙がでるなど身体に不調がでてしまった」「急きょ日本に帰ることに決めてすでに家をでて、日本に向かっています。もう自分が壊れてしまうのが分かるので、ごめんね許してね」などとかかれていた。 19日のXでは「奥さんから離婚したいと言われました。仕方ないので、そうするしかないです」などと投稿。子供たちとも会えず「一人でいると気が狂いそう。12年の一緒の生活が終わりました。でも本当に自分のせいです。100%」などともつぶやいていた。 与沢氏は「秒速で1億円稼ぐ男」などのキャッチフレーズがつくほど、事業で成功。その後、自己破産を経て、不動産投資で再び成功し、妻と3人の娘との移住先ドバイでの豪華な暮らしをSNSに紹介していた。

娘の芸能界入りに反対していた理由とは…「彼女は本当にすごいんです」松田聖子(63)が語っていた親子の“大きな違い”
〈紅白落選、全米デビューに「幼い娘を置いて」と批判も…「つらい。帰りたい」当時26歳の松田聖子を襲った“試練の数々”〉 から続く 【貴重写真】松田聖子はショッキングピンクのミニスカワンピースで満面の笑み…沙也加さんとの“親子ツーショット” 4月1日にデビュー45周年を迎えた、歌手の松田聖子(63)。自身と同じ芸能の道に進んだ一人娘・神田沙也加に抱いていた思いとは。今も歌い続ける彼女の歩みを振り返る。(全3回の3回目/ はじめ から読む) ◆◆◆ 松田聖子は1992年より自分で作詞を始めたのを機に、セルフプロデュースするようになった。自作の歌に合わせてステージ、衣装、髪型と、あらゆるイメージが泉のように湧いてきて、それを形にしていくことが楽しくて仕方がなかったという。もともとデビュー当初からフリフリの衣装を提案したりと、自身をプロデュースする才能には長けていた。 だが、この路線もしだいに行き詰まる。ちょうど私生活でも1997年に神田正輝と離婚、翌年に再婚するも長続きしなかったりと、不安定な時期だった。自分一人だけの力に限界を感じてか、1999年には、かつてCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)で彼女を発掘して育ててくれたプロデューサーである若松宗雄にマネジメントをやってほしいと懇願し、個人事務所に迎え入れている。同年にはまた、80年代に「赤いスイートピー」など数々のヒット曲を生んだ作詞家の松本隆とのコンビを久々に復活させ、シングル「哀しみのボート」をリリースした。 デビュー以来全速力で時代を駆け抜けてきた聖子だが、40代に入ると、ちょっと立ち止まって、まわりの景色を楽しんだり、色々な人と話したりしたいと思うようになっていた。当時、その理由を《もしかしたら、年齢は関係ないかもしれないけど……。娘が同じ仕事をするようになったからかな……。(笑)》と語っている(『婦人公論』2002年6月22日号)。 一人娘の芸能界入りに反対した理由 一人娘の沙也加は、聖子とロサンゼルスに住んでいた1999年、USC(南カリフォルニア大学)の卒業生が制作する短編映画『BEAN CAKE(おはぎ)』のオーディションに合格し、ヒロインを演じた。同作が2001年にカンヌ映画祭で短編部門のパルムドールを受賞したことから沙也加は一躍脚光を浴び、同年にはSAYAKA名義で芸能界にデビューする。 とはいえ、母親の聖子は、映画のオーディションのときこそ沙也加を応援したものの、彼女の芸能界入りには反対だったという。それというのも、自身が芸能界に入って、楽しいこともあったとはいえ、その反面つらいこともたくさんあり、同じ苦労をさせたくなかったからだ。 しかし、沙也加は幼いころより、舞台袖で母親をずっと見てきて、芸能界というより表現することに強い関心を抱いていた。後年、母とそろって雑誌の取材に応えたときには、《大舞台で歌っている母を袖で見ていると、観客の方と母の心がつながっている様子がよくわかるんです。それはもう素敵とかのレベルではなくて、何かすごいことが舞台で起きているのを感じました》と語っている(『25ans』2007年11月号)。 聖子は悩んだ末、若松に相談すると、《今、目標が持てない若者が多い中で、これだけやりたいことがはっきりしているんだから、やらせたほうがいい。可能性を閉ざすのは、フェアじゃない》と説得されたという(『COSMOPOLITAN』2002年2月号)。恩人の忠言により聖子はとうとう折れ、当時中学生だった沙也加には学校にはちゃんと行くと約束させた上、若松に彼女を預けたのだった。 娘は母の手を離れ「神田沙也加」として別の道を選んだ 沙也加のデビュー後初仕事は江崎グリコ「アイスの実」のCM出演で、その挿入歌も彼女自ら作詞して歌い、大きな反響を呼ぶ。翌2002年には「ever since」でCDデビューも果たしている。しかし、その後、松田は若松と、沙也加の歌手活動の方向性をめぐって対立し、お互いに何とかすり合わせようとしたものの、最終的に母娘で彼のもとを去るにいたった。 この時点でまだ未成年だった沙也加に、聖子はステージママぶりを発揮したものの、反面では《彼女の中には、「母とは違う」という意識があると思うんです。母はああやって、あんなふうに仕事をしてきたけれど、「私は私、私はこうなるんだ」という自分らしさのイメージがはっきりあるはず。それは、見ていてよくわかります》と見抜いていた(『LEE』2003年8月号)。 それだけに、その後、沙也加が母親の手を離れるのは自然の流れであったのだろう。やがて沙也加は、2004年に宮本亞門演出のミュージカル『INTO THE WOODS』で初舞台を踏んだのを機に、ミュージカル俳優に針路を定めた。2006年からは本名の「神田沙也加」で活動するようになる。 それでも仕事を離れたところでは親子の仲は良く、同居していた聖子の母(沙也加にとっては祖母)から、夜遅くまでしゃべったりしていると一緒によく怒られたという。このころ聖子は、自分と沙也加の違いを次のように説明しながら、娘を褒め称えていた。 〈《彼女と私では、仕事にとりくむときの方法論がまるで違います。お芝居でも、私は台本を読んで把握したら、あとは感覚にまかせるタイプで、いわゆる直感型でしょうか。娘は完全に分析型で、台本には彼女が演じる役の緻密な人物分析がびっしり書き込んであったり、気持ちの動きを折れ線グラフで示してあったり、本当にすごいんです》(『婦人公論』2008年4月7日号)。〉 突如として訪れた、沙也加との別れ 2011年には母娘で紅白歌合戦で共演もして、関係は良好とうかがわせた。しかし、その後、確執が頻繁に伝えられるようになる。そんな喧噪をよそに、沙也加は着実に俳優として実力を発揮していった。それが2021年12月、突如として彼女は逝ってしまう。…