かつて春高ヒロインとして注目を浴び、強豪・NECレッドロケッツを経てビーチバレーの世界で闘った浦田聖子。NumberWebインタビュー第2回では、オリンピック出場を目指したビーチバレー時代の秘話を聞いた。《全3回/第3回に続く》
浦田聖子はバレーボールで培ってきた9年間のキャリアをきっぱりと脱ぎ捨てた。2002年初夏の訪れとともに、ビーチバレーでのオリンピック出場を目指し、新たな生活をスタートさせた。当時21歳だった。
「環境面がガラッと変わりました。ずっと寮生活だったので、一人暮らしは家賃や水道代、光熱費などこんなにお金がかかるのか、と大変でした。悪天候の日は海で練習できない日もあって、『1日休んだら3日分遅れる』と言われて育ってきた私にとっては、どうしよう、どうしようと不安しかない。監督やコーチも結成当初はいなかったですし、世界の選手と戦いたいと思って転向したけれど、戦うまでの準備もできていない状態。初年度は椿本さんと一緒に組んで、『なんで体育館ではできていることが砂の上ではできないんだ?』と2人でクエスチョン状態。始めたばかりの頃は、戸惑うことばかりで世界を転戦していても結果は出ませんでした」
浦田のプレーが見違えたきっかけ
2年目からシドニー五輪4位に輝いたベテランの佐伯美香とペアを組むことになった。そこから浦田のプレーは見違えるように変わった。しなやかに、ダイナミックに。豊富なジャンプ力も際立ち、スパイクやジャンプサーブもより力強さが増し、砂の上で躍動した。
「テル(佐伯)さんと組んだことは大きかったですね。テルさんから、動けるようになるには3年は必要だよって言われていて。『3年もかかるの?』と思いました(笑)。テルさんは言葉で教えるよりも背中で見せてくれるタイプ。テルさんの真似をして動くと実際できるようになる。中学校時代に味わった練習すればうまくなる、という感覚をビーチで味わうことができたんです。大変な部分もありましたけど、面白いと思えるようになりました」
まるでスポンジのように、佐伯からビーチのいろはを吸収していった浦田は、2004年のワールドツアー大阪大会で7位タイに入るなど存在感を発揮し始めた。その後、アテネ五輪に出場した当時のトップランカー・楠原千秋ともペアを組んだ。ベテランたちとのシーズンを経て、浦田は同じくVリーグから転向を遂げていた鈴木洋美と2007年からペアを組むことになった。
「ヒョウ柄の水着」にはコンセプトがあった
ちょうどこの頃だった。『ビーチの妖精』として浅尾美和がメディアに登場。シーズン中は毎週のように国内ツアーの結果が露出されるようになった。
当時の女子ビーチバレー界は華やかだった。北京五輪に一番近いと言われていた佐伯美香/楠原千秋組、小泉栄子/田中姿子組のベテラン勢。次世代を担う浦田聖子/鈴木洋美組、大衆の視線を釘づけにしていた浅尾美和/西堀健実組らがしのぎを削っていた。
そんな中、選手たちのユニフォームである水着にコンセプトを持たせて前面に押し出していったのが、浦田/鈴木組だ。
「このシーズンからレオパレスさんがスポンサーについたので、『戦う豹』をイメージしたものにしようと話していて、ヒョウ柄の水着を作りました。単にヒョウ柄が好き、という理由ではなく、ちゃんとしたコンセプトがあったんですよ。ちょうどその頃、ヒロ(鈴木)さんとブラジル合宿から帰国したら、美和が大ブレイクしていて。ビーチバレーがメディアに露出し始めたタイミングと重なったんです」
メディアは『ビーチの妖精』に対し、『ビーチの女豹』としてマッチアップさせた。2008年北京五輪イヤーシーズンには、『金』を意識したゴールドバージョンを身にまとい、新聞社を挨拶回り。ビルの屋上で堂々と撮影したこともあった。
「各社へ私服を着てご挨拶して、撮影のときはバッと水着になる。当時はどこでも脱げる状態でしたね(笑)。恥ずかしいという気持ちは全くないです。私たちにとってはユニフォームなので。『ビーチの女豹』という名前をつけてくださったことで印象にも残りますし、知ってもらう機会も増えました。水着で注目を集めたかったのは、ビーチバレーはオリンピックでは人気があることを含めて、ビーチバレーの魅力が早く伝わるように。ひとつの手段という意識はありました」
浦田のこだわりが、ユニフォーム改革のきっかけに
だからこそ、強くなりたかった。結果的に浦田/鈴木組は北京五輪への出場が叶わなかったが、浦田の水着へのプライドは、ビーチバレーのユニフォーム史上に改革を起こすきっかけとなった。
とくに2010年に考案されたレイヤー水着は、フィット感と肩甲骨の可動を重視。筋肉の動きをスムーズに、かつ身体に負荷をかけない機能性とファッション性を追求した斬新なものだった。
「当時、水泳界でレーザーレーサー(水泳競技用の水着)が流行っていて、私たちの水着にも応用できないかと、考えました。インナーの水着は筋肉に沿って動くようにズレない。アウターの水着は砂がはけるような素材を使って二重構造になっていました」
現在のユニフォームは両肩でトップスを支えるショルダーストラップ型が大半だが、この頃の競技ウェアは首に紐をかけたホルターネック型が主流。選手たちの首にかかる負荷は否めなかった。
「私たちの時代のウェアといえば、これが定番。首の後ろで紐を結ぶので、首が引っ張られて、疲労が溜まってくると肩が凝ったり、首を寝違えたり。首、肩への負担を軽減したくて、インナーをショルダーストラップにして肌にフィットさせ、アウターはファッション性を持たせながらも首の後ろで強めに結ばなくてよいものを着ていました」
水着の多様性で表現した「ビーチバレーの魅力」
当時の女子選手のユニフォームは、水着一択。機能性を高めていくしかない時代である。浦田はレイヤー水着以外にも、光を蓄えれば発光するシリコンで蜂の巣をイメージした六角形の柄をデザイン化した「女王蜂」水着、ビーチバレーの魅力やテーマを色で例え七色のバリエーションをそろえたレインボー水着などをシーズン初めに発表。なかなかメディアに取り上げられないビーチバレーの話題を提供することも事欠かなかった。
最前線でビーチバレー界をけん引してきた浦田は、2010年から西堀健実とペアを結成。2012年にはロンドン五輪アジア予選に日本代表として出場。しかし、道半ばで敗れオリンピックには手が届かなかった。
「オリンピックに大失恋でした。何が足りなかったのか、そういう悔しい想いだけではなく、日本代表である自分が女子の連続五輪出場を閉ざしてしまったという申し訳なさでいっぱいになりました。ただ今になって思うのは、ビーチバレーに転向してオリンピックレースに参戦できたのは人生の財産だと思えるようになりました」
オリンピック出場を懸けて戦った者しか味わえない気持ちを胸に刻み、浦田は現在ビーチバレーの解説者、講師、バレーボールの外部指導の現場で活動している。