直前の3月場所で十両優勝を果たしながら、電撃引退した逸ノ城(30歳)。2014年にデビュー、わずか5場所での新関脇、新三役はいずれも昭和以降1位のスピード出世だった。「“ザンバラ髪”の怪物」と騒がれ、将来を期待された男とはいったい何者だったのか? 9年前、雑誌『Number』での本人インタビューを特別に公開する。
「えーっ?」丸太みたいな太もも
「うわ、これ懐かしいっすねぇ」
身長193cm、体重200kgに迫るその巨体をかがめて、1枚の写真に見入る逸ノ城がいた。
それは2010年3月、モンゴルの広大な草原から海を越え、わずか4m55cmの土俵に立った、かつての自分の姿だった。頼りなげな肩に、柔らかに垂れた胸、真っ白な肌の上半身。一緒に来日した、丸々と太った照ノ富士が笑顔を向けているその横で、不安げな顔で棒立ちしている16歳の逸ノ城――。ただ、鳥取城北高校相撲部監督が、ひと目で惚れ込んだその太ももだけは、どっしりと丸太のように、存在感を放っていた。
2009年冬。モンゴルの首都ウランバートルで、相撲部員をスカウトするために集められた60人のなかに、冴えないひとりの少年がいた。
逸ノ城を見いだした同校相撲部監督の石浦外喜義が、その当時を振り返る。
「なんだかデレ~ンとした体だったけれど、パッと太ももを見た瞬問に、『えーっ?』と驚いたくらいです。うちの卒業生である田宮(元大関琴光喜)もそうだったんですよ」
2011年の山口国体。のちの逸ノ城(アルタンホヤグ・イチンノロブ)は左。2010年に来日、この丸太のような太ももが鳥取城北高がスカウトする決め手になった ©KYODO
「母親が反対した“日本行き”」
同校相撲部でコーチを務めるレンツェンドルジ・ガントゥクスは、自身も中学時代から日本に相撲留学をしたモンゴル人だ。選抜大会で勝ち残った逸ノ城を見て、日本に連れて行って大丈夫なのだろうか、続けられるだろうか、何よりも「相撲に向いているのだろうか」と、一抹の不安を覚えたという。
「性格もおとなしくて、あまり喋らない。モンゴル人は闘争心があって気が強い気質もあるけれど、そんな部分がまったく見えない。負けても悔しそうな顔をしないんですよね」
通訳の男性との、「この子のモンゴル語は訛っている」との会話から、遊牧民出身だと初めて知った石浦は、悩んだ。
「長男で、大切な働き手を連れて行ってしまっていいのか、と。実際、母親が反対し、日本行きはなかなか決まらなかったんです」
しかし、幼少時から燃料用の家畜の糞を集め、丸太を両脇に抱えて山を下り、羊や山羊、馬を追う日々を送っていた少年の心は、決まった。けして裕福とは言えない、過酷な遊牧生活を送る家族のためにも、日本に行き、成功したい――逸ノ城は言う。
写真は来日から4年、2014年のスピード出世。デビューからわずか5場所で関脇まで駆け上がり、CMにも出演した ©BUNGEISHUNJU
女子にも負ける「最弱部員」だった
「高校を卒業したら、就職するか、大学に行くか、プロに行くか3つの道があると言われていました。それならば、僕は最初から絶対にプロに行くと決めて、日本に来たんです」
両親と幼い弟妹を残し“ジャパニーズドリーム“を追った。部員たちと寮生活を送り、初めてまわしをつけた逸ノ城は、189cm、135kgの体躯を持ちながらも、女子部員に転がされるほどの「最弱部員」だった。
「ケガしそうだったので、1年間は相撲を取らせなかったんです。徹底的に基礎練習だけ。ただ“メシ”だけは強かったから、どれだけ大きくなれるかな、とは思ってましたけどね」
との石浦の言葉に、逸ノ城は、「先輩に食べさせられたんですよ」と苦笑いする。
「どんぶりに盛られたご飯を8杯、鍋を5杯と、吐きそうになっても、吐いたら意味がないんで、我慢してました。稽古も大変でしたけど、食べるのもつらかったっす……」
挨拶、礼儀、日常会話。コーチのガントゥクスが、「腰を落とせ」「脇をしめろ」との相撲の基本指導の日本語をローマ字で表し、モンゴル語でその意味を書き添える。そのひとつひとつを覚える生活が始まった。
2014年秋場所。100年ぶりの新入幕優勝は逃したものの、殊勲賞と敢闘賞を受賞した。所要5場所での初受賞は最速タイ ©BUNGEISHUNJU
「ずっと部屋でひとりぼっちでした」
しかし、入部早々、逸ノ城はいきなり躓く。
5月、右膝の靱帯を痛め、土俵で四股を踏めるまでに、3カ月の月日を要した。
「寮に住んでいて、みんなは学校に行くんだけど、しばらく歩けなくて、ずっと部屋でひとりぼっちでした。時間もいつもより長く感じて……。松葉杖をついて歩けるようになって、上半身のトレーニングを頑張ったんです。筋肉がまるっきりなかったのが、ダンベルやって硬くなってきたり、腕が盛り上がってきたりして、うれしくて。どんどんやったっす」
まるで当時のうれしさをそのまま再現するかのような、素朴な笑みを浮かべる逸ノ城。この時の心情を、ガントゥクスはこう代弁した。
「まわりがガンガン稽古していて、本人は相当に焦っていたでしょう。“早く稽古したい、早く土俵に上がりたい”とね。ケガが治ってからは急激に体も大きくなって、だんだんと、強くなっていったんです」
写真は高校卒業後、2013年10月の新弟子検査で。来日したとき135kgだった体は183kgになっていた ©JIJI PRESS
2年生になると、その体格とパワーを生かし、瞬く間に力をつけた。鳥取城北高校相撲部では、重しを入れて150kgもの重量にした大型トラック用タイヤを、腰を割った体勢で押し返す、独特のトレー二ングがある。逸ノ城だけは、さらに40kg分の重りをつけ、軽々とタイヤを起こしていたという。
逸ノ城が在籍した当時の2011年、鳥取城北高校は、6つの全国大会で個人・団体戦を完全制覇した。率いる石浦は言う。
「逸ノ城は、まず強い先輩たちに揉まれたのがよかった。2年生としてその背中を見て、最初は相撲を取らせてもらえなかったのが、だんだんと相撲らしくなり、そのうち五分になる。『あの日本一の先輩に勝てれば、俺も』となってゆくんです」
「プロは無理だ」
2年生でレギュラーの座を掴んだ逸ノ城は、急成長し、その逸材ぶりをいかんなく発揮した。2年時で2冠、3年時で3冠、計5つの全国大会で個人優勝を果たし、いつしか高校相撲界にその名を轟かせる。高校相撲の最高峰であるインターハイでは、「外国人初の高校横綱誕生」の呼び声も高かった。
だが結果はまさかの準決勝敗退。あれから2年の月日を経た今でも、「すごく悔しかった」と、顔を曇らせるほどだ。逸ノ城自身は卒業後すぐにプロ入りを熱望したが、ここで石浦は、一計を案じる。
2013年10月の新弟子検査で。高校卒業後、鳥取県体育協会に一度就職し、翌年に初土俵を踏んだ ©JIJI PRESS
「性格がのほほんとしていて、周囲のみんなから愛され、可愛がられていた。“もう少し強くなってプロに行ったら、活躍し、きっと人気が出るだろう”と思いましたよ。だからこそ、“こいつだけは絶対に強くして送り出さないと。まだ足りないものがある″と思い直したんです。本人には申し訳なかったけれど、理由をつけました。『高校横綱になれなかったから、プロは無理だ。その代わり社会人の大会を目指せ。実業団、国体、アマチュア横綱を決める天皇杯と、チャンスが3回あるんだ。お前もこのままでは悔しいだろ? ひとつでも狙ってみろ!』とね」
数多のモンゴル人高校生を育て、大学相撲界、大相撲界に送り出している石浦には、もうひとつの懸念もあった。
「日本語も、まだまだだったんです。だから寮を出して、体育協会の先輩と一緒に住まわせた。日本語を早く覚えれば、のちの本人のためになる。遠回りをさせたけど、慌てなくてよかったんですよ、逸ノ城の場合はね」
「初めて泣いたのを見た」
鳥取県体育協会に就職した逸ノ城は、毎日自転車を30分こぎながら、相撲部の道場に通い、ひたすら稽古に打ち込む。9月、全国実業団相撲選手権で優勝し、悲願の「実業団横綱」の栄冠に輝いた。外国人初の幕下15枚目付け出し資格を得て、プロヘの切符をようやく掴み取ったのだ。傍らで付き添っていたガントゥクスは、この時の逸ノ城を、まるで昨日のことのように思い出す。
「ものすごく集中していて、決勝戦は右四つで自分の型になって、一歩も引かずにがむしゃらに前に出た。相撲部時代は、女子に負け、自分より小さい子に負け……。負けても悔しそうな顔を見せずに、『おいおい大丈夫かよ』と心配するくらいに無表情だった逸ノ城が、この時、初めて泣いたのを見たんです。本当にタイトルがほしかったんだろうな。プロに行きたかったんだろうな。心底ホッとしたんだろうな、と僕も泣けたくらいです」
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170cmの小さな“兄費分”ガントゥクスと抱き合った逸ノ城の頬を、堰を切ったように大粒の涙がつたった。
「モンゴルに帰りたいとか、稽古がつらいとか、一度もそんな言葉を聞いたことがなかったし、表面に感情を出さない。でも、熱いもの、強いものを、そのぶん内に秘めていたんだと思うんですよね」
2014年初場所でデビュー。記者に囲まれる逸ノ城 ©JIJI PRESS
「白鵬関は、何歳で横綱になったんですか?」
2013年10月、満を持して湊部屋に入門が決まった。外国人力士は3カ月の準備期間を取る規定があり、すぐには土俵に上がれない。本場所に向かう兄弟子たちを見送り、部屋にひと残る逸ノ城の、覇気のない背中に、部屋の行司が声を掛けたことがあった。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「いえ……。早く相撲を取りたいんです」
母の反対で、すぐには日本に渡れなかったあの日々。ひとり、寮の部屋に取り残されたあの日々。ケガが完治せず、土俵に立てなかったあの日々。タイトルを獲らなければプロ入りさせないと言い渡され、ひたすら稽古を積んだあの日々――。飢えた狼は、ひとたび獲物を捕らえれば、貪り食べ尽くし、それは己の血となり肉となる。まさに逸ノ城は、日々、相撲に飢え続けていた。
写真は2015年撮影 ©BUNGEISHUNJU
2014年1月、念願の初土俵では6勝1敗。翌3月も6勝し、わずか2場所で十両に昇進する。5月には新十両で優勝を果たし、十両も2場所で通過した。新入幕の9月場所では、破竹の勢いでの13勝2敗、千秋楽まで白鵬と優勝を争い、あわや100年ぶりの新入幕優勝かと、その怪物ぶりが一躍話題となった。
11月の九州場所では新関脇として勝ち越し、思えば激動の1年だったのでは――と水を向けると、満面の笑みを湛えて、こともなげに言うのだった。
「本当に素晴らしい1年でした」
拍子抜けするほどに無邪気な逸ノ城に、ふと石浦の言葉が脳裏をよぎる。
「まだ1年目の新弟子でしょう? この1年はプロの世界で、巡業でもなんでも、すべて新しいことばかりだったから、相当なストレスがあったと思う。でも、ひと通り経験した2年目は、もう大丈夫でしょう。相撲部時代が、まさにそう。1年目は覚えることばかりで、慣れた2年目から、俄然強くなったんですから」
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“2年目”を迎える逸ノ城に、まずは初場所の目標を問うと、「大きく勝ち越したい。自信はあります」ときっぱりと口にした。そして、大草原で羊を追う少年時代から憧れ、目標としていた力士は白鵬なのだ、とその名を挙げる。
「白鵬関は、若い頃に横綱になったんですよね? 何歳ですか?」
逆質問する逸ノ城に、「22歳だ」と答えた途端、その顔は無表情に戻り、しばし静かな沈黙が流れた。ほの暗い稽古場の上がり座敷で、一瞬、逸ノ城の目が獲物を捕らえた狼のように光を放つ。
2015年、無敵の2年目。逸ノ城は22歳になる。
逸ノ城はその後、2022年に初優勝。新入幕から8年が経っていた。引退までの最高位は関脇 ©JIJI PRESS