「5代目瀬川」を超える2億5000万円の身請け…姫路城主に迎えられた「吉原一の名花」の波乱の運命
江戸時代の歓楽街、吉原は華やかで賑やかな表の顔とは裏腹に、そこに生きる女郎たちにとっては厳しい現実が待ち受けていました。多くの女郎たちは貧しい家庭に生まれ、幼少期に親に売られるか、仲介業者により連れてこられた場合がほとんどでした。彼女たちは「年期」と呼ばれる制度のもと、借金に縛られた生活を送り、自由を手に入れる方法は限られていました。
女郎が自由になるための最も現実的な方法は、年期が終わるまでの勤め上げでしたが、日常の生活費や衣装代、医療費などが借金に上乗せされ、借金は減るどころか増えていくばかりでした。もう一つの方法は「足抜き」、つまり逃亡でしたが、これは非常にリスクの高い行為でした。吉原から無断で逃げた女郎は厳しい罰を受けることとなり、逃げた先での生活も困難でした。最も確実な方法は「身受け」と呼ばれる制度で、これは客が女郎の年期訪問を買い取り、彼女を自由な身にするものでした。
身受けの金額は女郎の人気や格式によって大きく異なり、時には莫大な金額に達することもありました。高額な身受けの代表例として語り継がれているのが、6代目高尾の一であり、彼女は姫路城主によって2500両、現在の価値で約2億5000万円で見受けられました。しかし、その後の彼女の運命は波乱に満ちており、城主の浪費が幕府の怒りを買い、彼女は越後に移り住むことになりました。
身受けは単なる自由への道ではなく、女郎のその後の人生をも左右する重要な出来事でした。多くの女郎は身受け人の妻や妾となりましたが、その運命は必ずしも幸せとは限りませんでした。例えば、2代目高尾は仙台藩主に見受けられた後、彼の怒りを買って命を落とす悲劇が伝えられています。
また、吉原の歴史において重要な存在であった5代目瀬川も注目されています。彼女は2400両、約1億4000万円で見受けられ、当時の吉原の中でも記録的な額でした。瀬川は元々つや三郎と惹かれあっていましたが、彼との結婚を選ぶことができず、最終的に富豪の申し出を受け入れました。こうした恋愛感情よりも現実的な選択を余儀なくされた女郎たちの姿が浮かび上がります。
吉原は華やかさの裏に深刻な問題を抱えており、女郎たちは感染症のリスクに常にさらされ、平均寿命は22.7歳という記録も残っています。身受けは女郎たちにとっての救いの道である一方で、身受け人にとっては莫大な利益を得られるチャンスでもありました。そのため、吉原は厳格な年期制度を維持しつつも、身受け制度を許容していました。
このように、吉原の華やかさの裏には数えきれない悲劇が潜んでいます。多くの女郎が過酷な環境で命を落とし、身受けを通じて救われた者も少数に過ぎません。身受けされたからといって必ずしも幸せになれるわけではなく、時には捨てられたり、争いに巻き込まれたりすることもありました。この歴史は、今日の日本社会においても重要な教訓を提供しています。華やかな表舞台の裏には多くの犠牲が隠されていること、そして人の人生が金銭で左右される社会の厳しさを理解することで、当時の女性たちが置かれていた境遇への理解が深まることでしょう。